- 78年前の真実
- 真珠湾(パールハーバー)公認ガイド ツアーの朝は早い
- PEARL HARBOR NATIONAL MEMORIAL 到着
- ボーフィン潜水艦(対馬丸事件)
- アリゾナ記念館 (uss arizona memorial)
- 知られざる78年前の開戦理由
- 戦艦ミズーリ (USS Missouri, BB-63)
- 太平洋航空博物館 (PACIFIC AVIATION MUSEUM)
- 日本軍の頭脳 じつは凄かった (ターニングポイント)
- 真珠湾ツアー 78年前の真実 総まとめ
78年前の真実
今回の記事は、個人的感想や感情 思想が色濃く出ていますので気分を害する方もおられるかと思います。ただのド素人の見解や”たわ言”ですので 寛大な心で どうぞご理解 ご了承お願い申し上げます。
ハナサク かなり戦史の”真実”に興味があります。女性子供は無関心な場合が多い^^;
先週12月8日は『対米英開戦記念日(太平洋戦争開戦記念日) 』でした。
1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。
「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信され、戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して、攻撃の成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電された。
元々は、ワシントンで交渉していた野村・来栖両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていたが、最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、事実上奇襲攻撃となってしまった。
日本がアメリカに宣戦布告をする前だったので、だまし討ちをされたアメリカ国民は一致団結し、"Remember Pearl Harbor !" の名の元に、打倒日本!と戦争へ突入した・・・と教わってきました。
また それを全く疑うことなく信じて「なぜ日本軍は 到底 戦力でも経済力でも勝ち目のないアメリカに無謀な喧嘩を売って 沢山の兵士や国民を失ったのか?」と思っていました。
しかし近年 これは”事実と異なるのでは?”と 更なる研究が進む様になりました。現に日本軍が真珠湾攻撃を開始する開戦寸前にハワイ沖で日本軍の潜水艦がアメリカの奇襲攻撃で 先に被害(挑発攻撃)を受けた等の証拠も見つかってきている。
また奇襲攻撃についても 真珠湾攻撃から遡ること ほんの数時間前 時を同じくして マレー作戦において日本陸軍との戦端が開かれたイギリスでは「だまし討ち」など一言も語られていませんし、アメリカにおいては アジア・アフリカ・中東諸国へ20以上の戦争を一方的に仕掛けていますが すべて”不意打ち”の一方的攻撃開始で開戦し ただの一度も宣戦布告なんて行われていません。
第2次世界大戦の端緒となった独ソのポーランド侵攻やドイツのヨーロッパ侵攻そしてドイツのソ連侵攻等も然りです。何か違和感を覚えませんか?
「只今から攻撃を始めます!お互い頑張りましょう」なんて宣誓はありません。
このような真珠湾攻撃や太平洋戦争を題材にした映画は多々あります。
しかし どれも ストーリーやキャストの関係上「善役 悪役」がきっちりフィクションで色づけられ 事実や情報が盛られたり錯綜され 歴史に興味を持つキッカケにはなっても 真実を学ぶには ちょっと誤った認識で学んでしまいます。※事実に基づいたドキュメンタリー番組は大好き。
ココは自分の 目で見て、肌で真実を感じてきたいと思います。
真珠湾(パールハーバー)公認ガイド ツアーの朝は早い
過去 数回 訪れる機会はありましたが いずれも家族旅行中でしたので 子供達の「せっかくのハワイで悲しい気分になりたくない」「怖い 見たくない」って反対意見もあり ずっと機会を狙っていました。今回の旅程は夫婦のみですので 絶好のチャンス到来ではないかっ♪
唯一 今回の旅程で 事前予約して楽しみにしていました。
しかし 宿泊ホテルまでの送迎が早い!早すぎる!早朝5時過ぎ…起床。
ホテルへのお迎えは6:15分頃。宿泊していましたハイアットのクラブラウンジの朝食提供が「AM6:00~」ですので 時間的に朝食は省略したい所ですが、ツアー中の「約8時間」どこで休憩や軽食がとれるかも わかわかりません。
何より 基地内に入る際の持ち物制限も厳しく ほぼ”手ぶら”でないと面倒臭そう。
ってことで、6時5分前位には クラブラウンジで早食い競争のスタンバイ♪
もう 取りあえず 口に頬張る!って感じで朝食を済ませ ホテルの下へ降りますと…
既に お迎えのガイドさんも到着していました。
PEARL HARBOR NATIONAL MEMORIAL 到着
朝7時ちょい過ぎ。徐々に日差しが眩しくなってきました。でも早過ぎでしょ!
と思ったのも束の間 既に スゴイ行列です。ガイドさん曰く この朝イチが一番効率良く ゆっくり廻れるらしく 人気なんだとか。
さらに、予定のより少し遅れた為 開門時でのスターティングポジションも いつもより 少し後方らしい。
ゲートOPENと同時に 一斉になだれ込みます。
ワイキキは日本人だらけなのに こちらは意外に日本人…少ないのねぇ~。公認ガイドツアーですとチケット等も並ばずに済みますし 終始 学校の授業の様に丁寧な解説があります。真剣に学びたい方は…筆記用具必須??😝
各施設や要所要所の時間は決まっていますが それ以外は 多少自由に行動可。
余すことなく隅々まで見てやろう!と意気揚々。
戦艦アリゾナの超巨大なアンカー!デカっ!ココまで吹き飛んで来たんだとか😨
当時の、この画像を見ると その爆発の凄さが伺えます。
アリゾナが眠る場所から、ココまで吹き飛んでくる 爆発の凄さに…絶句
ボーフィン潜水艦(対馬丸事件)
コイツかぁー!このボーフィンが 対馬丸で疎開で本土へ向かう子供達をはじめ1500人近い犠牲者を出した張本人!なぜ「英雄」気取り?と またまた違和感。
話は逸れますが 那覇で 対馬丸記念館、行かれたことありますか?
那覇でちょっとした”空き時間”に波の上方面へ。ゆいレール県庁前駅や久茂地から 徒歩でもで行ける場所にあります。沖縄には戦史を学ぶ場所 沢山あります。家族旅行で浮かれ最中では 難しいでしょうが 我が家では小さい頃から 「楽しい沖縄」だけでなく、唯一の地上戦で20万人もの尊い命を奪われ、地獄を見た沖縄の悲惨な過去も 幼い頃から少しずつに教えてきたつもりです。
👆海軍司令部壕 👇知覧特攻平和会館
お子さんの「夏休みの自由研究」に困った時なんか 戦史の勉強にもなりますし宿題のネタとしても役立ちますよ。
那覇 対馬丸記念館
わずか数十人の生存者は👆の様に木材や筏に捕まり 漂流しながら 救助を待ったそうです。
入館料はたったの500円です。子供は100円だったかな?※おてんば末娘歴史勉強中
利用案内 (料金) | 対馬丸記念館 興味のある方は是非。
1944年 (昭和19年)8月22日、政府命令による学童疎開中輸送中に 一方的にボーフィンに攻撃され沈没。対馬丸記念館には その犠牲なった子供達の名簿や写真が並んでいるのですが もう 言葉を失います。
その憎っくきボーフィンが…目の前に 退役した英雄として鎮座しています。さらには戦果の証「撃墜マーク」が!その中に民間船の”対馬丸”もカウントされています。
計44隻の撃墜のうち、戦艦は・・・わずか4隻のみ。他の40隻は対馬丸の様に無抵抗な民間船が被害にあっています。そして後に行われる連邦裁判でも「無罪」おとがめなしです。当時 如何にアメリカの都合の良い様に処理されてきたかわかりますね。
ハイ、つぎ~~!
アリゾナ記念館 (uss arizona memorial)
やはり 一番興味があるのは”真珠湾攻撃”の象徴でもある アリゾナかな。
時間になったので アリゾナ記念館に向かいます。流れとしては こちらでは初めに映画を見せられて 終わると海側の出口からボートに乗り込み 海へ出ます。
※カラー加工された鮮明な画像を見つけちゃいました。
78年 海で眠る 戦艦アリゾナのジオラマ…こいつを今から見に行きます。
日本人が…居ねぇ~~!やはりアメリカ人が圧倒的に多いですね。
この様な状態で海上から ミズーリやアリゾナへ向かいます。米軍のガイドさんが一生懸命 解説してくれていましたが ハナサク夫婦には 全く聞き取れませんでしたので 最後の拍手の際だけ合わせときました。
やっと来れた。この海面の真下にアリゾナは78年…眠り続けています。
この辺の突起部は 潮位によっても 多少変化しそう。
78年経っても 未だにオイルが流れ出てるんですよね~。環境問題的に タンカー等のオイル流出事故等で用いられる「オイルフェンス」等 施さなくて大丈夫なのかなぁ?
78年間 このままの姿で眠ってるってスゴイですよね。浪漫も感じます。しかし 反面、あえてオイルを流失させたままの状態で観光資源に利用してる?的 ひねくれた感想も持ってしまいます。
真珠湾攻撃は タイプ入力が遅れ 予定の攻撃30分前伝達は間に合わず「宣戦布告が遅れた」ので事実上の”闇討ち”と広く認識されていますが、じつは天皇陛下の名の元に宣戦布告されているようなんです。
知られざる78年前の開戦理由
12月8日、日本海軍によるパールハーバー攻撃の1時間20分前、同盟国 (イギリス・オーストラリア・イギリス領インド帝国) が、マレー半島にて日本陸軍の「マレー作戦」奇襲猛攻撃を受け、 戦況も日本軍の2倍以上の兵力がある同盟国軍は押されまくり 防戦一方状態となり、この事態は即座にアメリカ本国指令部に報告されました。
それと同時に アメリカ中の米全軍に緊急戦時体制が下達されましたが、なぜか、太平洋の要衝、ハワイの軍にだけは一切伝達されず 知らされないままだったのです。
ハワイに設置されていたレーダー監視網は、ハワイに迫りくる日本軍の飛行編隊を捉えていましたが、知らされてないが故に通常の監視体制だったので、「その日到着する補給機部隊が、予定より早く到着した」としか、判断されなかった。
ハワイには知らされていませんでしたが、アメリカは日本海軍の真珠湾への奇襲を察知していました。それはアメリカが日本の外交暗号の解読に成功していたからです。他にも 日本海軍暗号 陸軍暗号の解読に成功していました。つまり米側は日本の空母がどこにいて何を企み何を命じられたかは米軍に筒抜けだったのです。
現に 米軍の要 空母”エンタープライズ”や”デキシントン”また”サラトガ”も真珠湾を離れたりドック入りしていました。これは 今後の戦況次第では致命傷になりかねない 一番大事な空母艦だけは「避難」させていた?とも受け取れます。
さらに驚くのは11月25日、第一航空艦隊が真珠湾攻撃に向けて出発するのと同時に、ワシントンから米国および同盟国のすべての艦船に対して「北 太平洋の航行を禁じる」という指示が出され、キンメル提督は独断で「演習」と称し日本海軍の動きを察知するためにハワイ北方に偵察用の艦船を配置していたのですが、ホワイトハウスはこれを急遽中止させています。
ハワイ時間12月7日(日曜日)午前7時49分、日本軍がマレーへ侵攻したことすら知らされていなかったハワイのキンメル提督は、休日ゴルフに出かけようと玄関を出て迎えの車に向かった時、日本軍機による爆撃が開始されました。
何故なんですかね?おかしいと思いません?
日本との戦争の危機を知らなかった(知らされてなかった?)のは、ハワイに司令部を構えるアメリカ太平洋艦隊司令長官のキンメル提督とハワイ方面陸軍司令長官ショート将軍だけだったそうです。
当時、ひとりだけ戦争を始めたがっていた狂気の男がいました。
当時ルーズベルト大統領は、対独戦でドイツと開戦する理由作りのため、中国の利権を我が手に奪い取るため、何としても戦争がしたかったわけですね。
さらには当時 戦争反対意見が多かったアメリカ国民からも「戦争やむなし!」とお墨付きを貰える…って状況がルーズベルトにとって最高のシナリオです。そう、後のアメリカ国民感情「Remember Pearl Harbor !」精神です。
そこで 開戦きっかけ作りにまんまと利用されたのが日本だったのです。
アメリカから日本は徹底的に目の敵にされ無理難題を強要され とことん追い詰め、いじめ抜きました。とどめが、ご存知ハルノートと言われる最後通告。事実上「開戦」に舵を切らざるを得なかった状況を、じつはアメリカが導いていた・・・これが 本当の開戦理由でしょう。
日本軍の真珠湾攻撃まで、アメリカは日本との和平への道を求め続けていたなんていう歴史本に書かれた綺麗ごとには実は”ウソ”だらけで、アメリカの都合の良い様に捻じ曲げられています。
ルーズベルト大統領は、日本海軍によるパールハーバー攻撃前日、家族と朝食を取りながらこうつぶやいたそうです。「明日、戦争がおこる」と。
後にアメリカ太平洋艦隊 司令長官兼合衆国艦隊司令長官であったハズバンド・キンメル大将は「ルーズベルトは、パールハーバーにおける米軍を故意に裏切った」と証言しています。
闇が・・・深すぎますね。
それにしても 米軍施設内は撮影禁止等 規制が多すぎます。左上画像の橋を渡る所なんて検問所があるのですが カメラを構えただけで連行や没収なんだとか!😱
ガイド曰く「今日は日本の自衛隊艦や潜水艦が 長旅を経て真珠湾に停泊していますね~」って説明していましたので とりあえず写真いろいろ撮ってみましたが…どこ?どこ?🧐 何が何だか…
ハイ、つぎ~~!
戦艦ミズーリ (USS Missouri, BB-63)
ミズーリは「終戦(平和)の象徴」とされ、沢山の歴史,戦史があるのですが、ひねくれ者の私の中のイメージでは どうしても「客寄せパンダ」に思えてなりません。
と、文句をいいつつ、せっかくだし 乗船しますけどね~😝
東郷平八郎との深い所縁のある ご存知「チェスターニミッツ像」でしゃばりで手柄横取り大好きのマッカーサーとは違い アメリカでも崇められています。
ん???なんか…見覚えがあるぞー。。。
そうだ! 世界の果てまでイッテQ!で出川の”おつかい?”シリーズで爆笑した…「勝利のキス像」先日 国際線の機内ビデオで見たばかりでしたので 覚えてました。
Sailor Statue はサンディエゴの巨大なのが有名ですかね。
・・・の、等身大?😆 ちっちゃいっす。。。
モデルとなったご本人は95歳まで 長生きされてたんですね~。
この鉄製の階段が至る所にありますし 結構な総距離を歩き廻りますので 女性の場合 ヒールの高い靴等は危険ですし疲れると思います。
画像では伝わり難いのですが やはり目の前で見たら”ド迫力”です。
1945年9月2日、東京湾上に停泊した この戦艦ミズーリの甲板上の まさに”この場所”において調印式がとり行われました。
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが調印の式場にミズーリの艦上を選んだのは、洋上であれば式典を妨害されないこと、ミズーリが時の大統領であったハリー・S・トルーマンの出身州であり大統領の娘が艦名の命名者であったこと、海軍側に花を持たせたいと考えたことがその理由とされています。
ミズーリはかつてペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させていたのと全く同じ位置に停泊したとされ、これはマッカーサーの演出とされています。
ミズーリは硫黄島の戦い、また沖縄戦にも参戦しましたが 沖縄戦で一機の日本軍 零式 特攻隊がミズーリの横っ腹 甲板に衝突しました。
大破した戦闘機から特攻隊パイロットの遺体を引きずり出し、米兵3人に蹴飛ばされているのをウイリアムキャラハン艦長が咎めます。
その零式戦闘機の特攻げ凹んだ部分は 今も そのまま残してあります。
ミズーリは一度退役した後 1986年 湾岸戦争に参戦する為 再就役するのですが その際 細部まで全体的に修復され 最新鋭の武器類が増設された。32発のBGM-109トマホーク・ミサイル、16発のハープーン・ミサイルが発射可能な箱形発射筒4基のファランクスCIWSなどが増設され最新の電子機器も搭載されるのですが・・・
この凹んだ部分を修復せず あえて残すあたりもアメリカの”あざとさ”を感じます。
後日、キャラハン艦長は「たとえ敵国の兵士でも 共に国の為に戦い亡くなった今・・・敵も味方もない」と、旭日旗で水葬を行います。深イイ話ですね。
館内もくまなく探検してみましょう。
下っ端の米兵は配管の隙間が就寝スペース。寝返りすら…無理っぽい。
階級ごとに、露骨にグレードアップしていきますね。
艦長室はリビングや専用シャワールームまで😱😱😱
操舵室まわりも・・・うろちょろ。
この場所から この視界を見ながら 硫黄島や沖縄に向かったんですね~。
ちびっ子!めっちゃかわいい。。。遠足かな???
この引率ロープ・・・よく出来てますよね~。アメリカっぽい。日本の保育園,幼稚園荷もあるのかなぁ?? 微笑ましい光景でした。
ミズーリから降艦すると、チェスターニミッツ像の向いにトイレ等あります。
しかし さすがハワイ。すべての発色が素晴らしい。
たくさんの日光を浴びて 植物はイキイキしてます。
移動中 駐車場や他の施設は撮影しないように。と釘を刺されていましたが~
やっぱり、ついつい撮っちゃいますよね~。25年程前 アメ車大好きって頃もありましたし。ちなみに,この後 盗撮…見つかって、怒られました😆
ハイ、つぎ~~♪
太平洋航空博物館 (PACIFIC AVIATION MUSEUM)
「太平洋航空博物館 パールハーバー」第二次世界大戦当時、実際使われていた格納庫が改造された博物館。真珠湾に浮かぶフォードアイランドという島にあり、戦闘機や当時にまつわる展示品の数々を見学することができます。
日本軍の零戦の展示もあります。零戦は当時の日本の技術力の高さを世界に証明するスゴイ能力を持った戦闘機だったんですよね~
不時着した零式戦闘機は 米軍にとって 恰好の研究材料となり…
日本が軍艦にこだわる中 アメリカは次々と最新鋭戦闘機の開発に力を注ぐ。
こちらには BIGMOUTH様ブログ で拝見して どうしても この目で見ておきたいモノが・・・
あるのです。この機銃穴の空いたままの ガラス窓・・・
真珠湾攻撃の日本軍の弾痕が今もなお残る格納庫のガラス窓、これも”手つかず”で残してあり 現在も そのまま見ることができます。
各時代のさまざまな戦闘機が並んでいます。
マニアには 堪らない空間でしょう。
この日はラジコン大会?が行われる様で 本物の戦闘機の横にラジコンの戦闘機が…この辺もアメリカらしいですね。日本だと文化財の博物館にラジコンを並べる許可を出すはずが…ない🤔
目の前で見たら2mくらいありましたので かなりの迫力でした。
少年時代 ラジコンも大好きでしたので(今でも少しありますが) とても楽しそう。
日本軍の頭脳 じつは凄かった (ターニングポイント)
ハナサク、深夜CSの再放送 「ナショナルジオグラフィック」National Geographic (ナショジオ) を真っ暗にした部屋でベッドに潜り”うとうと”と見ながら就寝するのが好きなんです。「衝撃の瞬間シリーズ」「惨劇の全貌シリーズ」「メーデー(航空事故)シリーズ」等々。
妻や長男から「メーデー等で あれだけの墜落シーン見てて よく平気で飛行機乗るよね😱😱」と・・・呆れられますが 過去の痛ましい事故の教訓から 改善を繰り返し 今の安全な航空業界があると思っていますので。。。
そのナショジオで 以前「真珠湾攻撃」や「硫黄島の戦い」の編があり 大好きなテーマですので しっかり録画して 何度も繰り返し観ました。そして ひとつ確信したのは「日本軍の頭脳 じつはスゴかった」って事でした。
真珠湾攻撃の放送回では アメリカで制作された番組にもかかわらず 日本軍の凄さを語っています。また”数点の過ち”さえ 指令上層部が気付けていたら アメリカは再起不能に匹敵する痛手を被っていたかもしれないと。
留学の長かった山本五十六も1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していたらしく長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に戻った 1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届いていた…と語っています。
失敗その1
山本五十六は 日本の古き慣習年功序列に縛られ 適材適所の人選が許されなかった。南雲忠一より下の優れた将官を抜擢できなかった為、
数年にも及ぶ真珠湾芸軍施設の研究と、入念に計画を立てた山本五十六長官は、
12月8日、空母エンタープライズとデキシントン 海兵隊の戦闘機中隊を輸送中で出航、
しかし、当日の決行判断で 南雲は戦艦や戦闘機の一斉攻撃に執着、
失敗その2
それでもアメリカに大打撃を与え勝利の可能性の道は唯一残ってい
それが、ドックなどの最重要施設、潜水艦基地、さらに最大の失敗は燃料貯蔵施設を見逃した事。日本軍には「背後から斬りつける、
真珠湾攻撃の際、真珠湾の燃料貯蔵施設には
失敗その3
第二波以降~第三波を行わなかった事。これに尽きる。
山本五十六は確かに「煙が上がると視界がなくなるので燃料貯蔵施設に第一波は手を出すな」と言っ
機動部隊の各将官の多くも攻撃不足と感じていたにも関わらず南雲
また空母の所在が不明のままで奇襲に踏み切った為 どこから攻撃してくるかもわからない反撃にも恐れた。この時点で日本軍は空母艦隊一隻すら被害を受けてないので このまま南雲は「英雄」として帰還したい一心だったのかもしれない。
もし南雲が山本の意思を汲み取れ 第二波以降~第三波指示ができていれば戦況は大きく変わったのは事実と思う。第二波以降の攻撃作戦を中止した判断こそが、
報告を受けた山本の側近達は祝賀ムードで歓声にわいていたが、幾度の
事実、アメリカはドックが無事なので修理は即できる。
後に 奇襲攻撃時に見逃した戦闘機満載の空母をはじめ、無傷だった真珠湾のドッグや潜水艦基地から 次々に出撃した潜水艦等に ことごとく道を遮られ遠方に出兵している日本小戦隊や近海での部隊に資源、
しかし 戦争に”タラレバ”はあり得ない無いが この圧倒的な経済力や戦力差でここまで攻め入った首謀の頭脳は 日本人として・・・少し 誇りに思うのです。
真珠湾ツアー 78年前の真実 総まとめ
今回はちょっと堅かったかなぁ~。女性や興味の無い方には じつにつまらない記事だった事でしょう。専門家でもないのに個人的主観や偏見 感想が色濃く不愉快にお感じの方もおられた事だと思います。🙏
しかし戦争は誰が良い悪いもないし意見や感想に正解や間違いもない。各々感じ方や受けとめ方は様々ですが 学校での捻じれた教えを鵜呑みにするのでは無く 自分の目で見て肌で感じて正しく判断し納得すれば、それが真実になると思うのです。
ワイキキで平和ボケした”うかれた”日本人は多々いますが ちょっと位 78年前の真実に目を向けてみるのも いいんじゃないかなぁ~…って感じるのが本音ですかね。
ツアーの印象としましては、安くは無いんですが ツアー代の大半は 実は米軍施設の入場料や施設料だったりするので 個人でもツアーでも 最低限の出費は必要です。
でもガイドツアーなら いろいろありますが 是非「公認ガイドツアー」に参加するのがお薦めです。今回ハナサクはベルトラ経由で申し込みましたが 他にも多々あります。
また米軍施設内の印象としましては、本音や裏事情はすべて伏せ「アメリカって国は とっても懐が深いだろ~?」アピールと、被害箇所をあえて修理をせず 全面公開する手法や お金をしっかり落とすツアー観光客なら最重要施設での入場も受け入れる 米軍の巧みな手法やあざとさも感じ取れる1日でした。
ツアーは参加コースにより所要時間もまちまちですが そこそこの距離を移動しますので 出来るだけ動きやすい格好や靴で参加する事をお薦めします。
今回は かなりの長編記事でした~。
興味のある方・・・
是非 一度 訪れてみては??
では、また~。。。